横浜ライフコーチング

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五月病は辞めたいと思っている会社にいるかぎり、ベテランでも治らない

商店街の裏通りの写真

この世で重要なことは、自分が「どこ」にいるかではなく「どの方向」に向かっているかだ。

- オリバー・ウェンデル・ホームズ(作家・医学者)

 

こんにちは。

ご訪問、ありがとうございます。

 

“日本の英語教育の歴史を変える”

これは私が外資系教育関連企業に勤めていた頃のミッショントーク

ミッショントークとは「なぜ自分はこの仕事にしているのか」を簡潔に表現する自己紹介のこと。

 

経営理念に惹かれて希望の企業に入社出来る人なんてほとんどいないはずなのに、なぜか気付いたらどっぷり会社の方針に毒されてメンタルがやられている人があまりにも多い気がしています。

 

会社にいるのがツラいと思うのは若者だけではありません。

ベテランと言われる立場の人も同じです。

 

あなたの周りを見渡してみてください。

腰痛、肩こり、手足のしびれ、首や背中の痛みといった筋骨格系の不調に悩まされている人いませんか?

これらは心理社会的因子の影響で起きると言われています。

 

実は、私自身重度の腰痛で順調だった会社員生活からドロップアウトしてしまった経験があります。

いま振り返れば、当時自分が掲げていたミッショントークと周囲との温度差を痛烈に感じた時期でもあったのかなと思います。

 

やりたいことを仕事にしようみたいな、呑気なことは言いたくありません。

けれども、“ミッショントークを貫ける仕事に就こうよ”とだけは言わせてください。

 

それにミッショントークだって、そのときどきで変わって当然です。

仕事が変わるたびに新しいミッショントークを作ればいいんだし、抽象度の高いミッションを掲げて、それに近い仕事を転々とするものありだと思います。

 

時代が変われば自分も変わり、それと同じくすべての人も変わります。

大事なことは、人はみな幸せになれる権利があり、幸せになるためのイニシアチブ(主導権)は自分だけしか握ることができず、だれもそれを邪魔することは許されないってことです。

 

もうすぐ5月も終わりそうだったので、振り返りたくない自分の過去を少しだけ思い出しながらこの記事を書いてみました。

 

少しでも参考になれば幸いです。

ではまた。

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木漏れ日の写真

正論を語れば孤立する。愛で語れば自立する。

平和通り商店街の写真

愛されることは幸福ではない。愛することこそ幸福だ。

- ヘルマン・ヘッセ(ドイツの作家・詩人)

 

久しぶりの投稿。

このページを開いてくれたあなたに心から感謝致します。

 

最近、かなりの頻度で行っている沖縄。

私は“邪気祓い”と呼んでいるのですが、物理的に遠いところへ行くという行動だけでも、いかに自分が狭い世界の中で生きているのかを痛感させられます。

今回も、最高の気付きを私に与えてくれた沖縄。

その中でもいちばんの気付きは、「人は正しいものを見つけたと思った途端、他人との関係性を失う」ということ。

 

新聞で見つけたある女性の手記に、こんなようなことが書いてあったのを覚えています。

“本当の自立とは、他人に支えられて生きていくこと”

 

自立の意味を取り違えると、人は孤立していくのだろうと私は思います。

自立にはあって、孤立にないもの。

それは、“他人を素直に認める”ということではないでしょうか?

 

沖縄滞在の最終日、スタバで隣の席に座っていた初老男性二人の会話。

面白すぎて、一時間近くそこから動けませんでした。

 

初老男性Aさん:ある教典の一節をひたすら紹介(離婚経験があるらしい)

初老男性Bさん:Aの友人。それをじっと聞いている

 

私は、教義の内容こそ知りませんが、教典の内容は素晴らしいと素直に思いました。

しかし、もっと素晴らしいと感じたのは、ご友人の説法をじっと聞いていた初老男性Bさんの次のような言葉です。

 

「それをお前の人生に置き換えて喋ってみなよ」

 

Aさんはしばらく何も言葉を発せない状態でした。

しかも、Aさんは離婚の原因を元妻に非があると思っているらしく、そのことについてもトドメの一発をBさんから食らってしまいました。

 

「悪いものを受け入れることのほうがもっと大事だよ」

 

Aさんは完全に撃沈です。

本とコーヒーの写真

人は正しいものを見つけたと感じた瞬間、それに光を見いだし、その光を頼りに前へ前へと突き進んでいきます。

見つけた光が正しいと思えば、その正しさが偉大であればあるほど、それを他人にも教えたくなるもの。

しかし、人間社会の争いごとの大部分がそこに端を発しているのも事実です。

 

競争、競合、奪い合い、なじり合い、誹謗中傷、傷付け合い、差別、生活ランク・・・

日本人は平等(と思われている)社会で生きているが故に、他人を認め、褒め、賞賛することより、自分と他人を区別したがる傾向があると言われています。

 

しかし、それぞれの人が持っている他人との違い。

それらを堂々と語れる社会でないと、自分を認めてもらえる機会もないということに我々はもっと早く気付くべきではないでしょうか?

 

何度失敗してもいいんです。

何度負けてもいいんです。

何度叩かれてもいいんです。

 

誰もが経験してるんです。

だから、隠さなくても全然大丈夫。

 

落ち込んで、悲しんで、打ちひしがれても、他人を包み込む優しささえ忘れなければ人は必ず救われます。

人を優しく包み込む。

それができるあなたこそが「神様」なんです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

PS

そんなことに気付かせてくれた沖縄、最高かよ!

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芸能人はなぜ短命なのか?そこに隠された意外な理由

沖縄の写真

沖縄県那覇市の「やちむん通り」にて

無限の可能性をはらんだ未来の観念が、未来そのものより豊穣なのだ

- アンリ・ベルクソン(フランスの哲学者)

 

こんにちは。

東洋哲学において、時間は“未来から過去に流れてゆく”という考え方があります。

そこには、「あの人と結婚していれば、こんな貧乏にならなかった」とか「あんなに苦労をしたから、いまの自分がある」という命題は存在しません。

過去に“あれ”をしてもしなくても、未来は同じようにやってくるという考え方は、苦労や努力を美談的に捉える傾向のある現代人にはなかなか受け入れられないかもしれません。

 

もっと若いときに勉強をしていれば、いま頃優雅な暮らしをしていたかもしれない・・

もっと出逢いに積極的だったら、いい人と結婚していたかもしれない・・

 

はたして、そうでしょうか?

常に理想は“現状の外側”に存在しています。

それゆえ、過去にあなたが現状の外側にゴールを設定していないかぎり、理想の生活を“いま”手にすることは不可能とも言えます。

 

若くして有名になる人。

ある程度の年齢になってから一躍有名になる人。

 

どんな人生においても、有名になるという確率はきわめて低いと思います。

有名になったり、華やかな世界にで生きる存在になるということ自体、張本人にとってもそれは想定外、つまり“現状の外側”の人生と言えるのではないでしょうか。

だからこそ、有名になった人ほど現状の外側のまま人生を終えてしまうのではないかと私は考えています。

 

それって運命、もしくは宿命なの?と思われるかもしれません。

多分、それは運命であり、宿命なのでしょう。

しかし、運命や宿命は「分け与える」ことも可能です。

 

マザー・テレサオードリー・ヘプバーン黒柳徹子さんのように有名でありながら慈善活動に身を捧げる生き方は、まさに運命や宿命を分け与えていると言えるのではないでしょうか?

 

生きる力は未来からやってきます。

人生におけるすべての原因も、過去ではなく未来側にあると言うべきなのかもしれません。

だからこそ、思いっきり未来に向けて矢を放ってください。

幸運や幸せといった的は、過去には存在しません。

それは絶対と言い切れます。

 

この記事が少しでも役に立てれば幸いです。

 

それではまた。

感想やご意見も待ってます。

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ツラいときこそあなた自身が愛になれ!

浦添城跡の写真

(映画『ハクソー・リッジ』の舞台にもなった沖縄県浦添市の前田高地にて)

たとえ暗黒の時代であっても幸せは見つけることができる。明かりをつけることを忘れないかぎり。

- アルバス・ダンブルドア(『ハリー・ポッター』の校長先生)

 

こんにちは。

誰もが知っているモーツァルトやベートーベンのような天才作曲家は、音を色彩などの別な感覚によって捉えていたと言われています。

頭の中で一度視覚化しないかぎり、異なる周波帯の音を複雑に組み合わせることはものすごく難しいらしいのです。

これは「共感覚」と呼ばれているもので、実は我々のような一般の人にも備わっている脳の特性でもあります。

 

例えば、落ち込んでいるときに「心がブルー」とか、身体に激痛を感じたときに「電気が走った」などと言いますよね?

人間が他の動物と決定的に異なるところ、それはイメージの世界を情報空間の中に無限に広げられる能力を持っていることです。

 

「氣」の世界では、情報空間と、いまあなたが肌で感じている物理空間は連続性(つながり)があると考えます。

恋人にフラれたり、借金を背負ったりして脳内のセロトニン(ハッピーホルモンのひとつ)の量が減ってしまえば、クスリで分泌量を増やすことができます。

しかし、元恋人とヨリを戻したり、宝くじで高額当選をしたりすれば、クスリなしでもセロトニンの量は増えることでしょう。

 

要は、人との「関係性」や持っている「資産」というものも“情報”の一種であり、目に見えるようで目に見えない、手に取れるようで触れることのできないものによって、人の心は動かされているという紛れもない事実があるのです。

 

あなたが嬉しそうにしていれば、私も嬉しくなります。

あなたが哀しそうにしていれば、私も哀しくなってしまいます。

 

異なる“自我”を持っているもの同士でも共感してしまうのは、我々が宇宙と名付けられた広大な空間を共有するために生まれてきたからだと私は考えます。

誰かの幸せのために生きようと思えば、それは自分の幸せのために生きることにもなります。

誰かの幸せを願えば、それは自分の幸せを実現させる近道ともなるでしょう。

なぜなら、「幸せ」もまた「氣」という情報であり、情報は国際通話のように距離や時間に関係なく伝わるからなのです。

 

動物や花が好きでも、愛し合い憎しみ合う相手はなぜか人間です。

すべての解決を時間に任せるくらいなら、私は愛のある世界だけで生きていこうと考えます。

あなたはどうですか?

 

沖縄の戦地巡礼から帰ってきたいま、そんなことをひとり考えながらこのブログを書きました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

ではまた。

木漏れ日の写真

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釣り合いの法則~言葉は現実を写す鏡である

沖縄にある喫茶店の画像

人間の最大の罪は不機嫌である。

- ゲーテ

 

他人との関係性の中でしか、言葉は意味を持たないと私は常々感じています。 

「おーい」と大きな声を発したとしても、発話状況によりその一言が色々な意味を持つようになるものです。

誰かを呼んでいるのか?

ミスを犯した相手を責めているのか?

感嘆の意味を込めた相手へのリスペクトなのか?

 

だから、英語を習得するときも“正しい”文脈や文法なんてものは初めから存在していないと考えるほうが意外と楽に会話力が身に付いたりするものです。

ましてや、言葉自体にも“決まった(特定の)”意味はないと学校で教えるべきなのかもしれません。

 

“言霊”と言われるように、日本では昔から言葉の力を信仰する風潮があります。

しかし、それは言葉が持つ「エネルギー」のことであって、言葉の「意味の強さ」を示すものではありません。

毒を吐く人は、その吐いた言葉自体に悪意があるのではなく、その人の心が初めから悪意という毒に冒されていると表現したほうが適切だと思います。

 

言葉には決まった意味を持たないと言いつつも、私は細心の注意を払って言葉を選びながら会話し、文章を書く習慣を身に付けています。

よく、思考は現実化すると言われますが、吐いた言葉はすでに現実化しているのです。

私はこれを「釣り合いの法則」と呼んでいます。

 

いつも“◯◯がしたい”という願望癖がある人は、常に「何もしていない」という現実を身にまとっています。

いつもお金がないと言ってる人は、お金を稼ぐ方法よりも、お金がない自分が似合う環境や相手を選ぶ傾向があります。

 

言葉は現実の写像です。

現実に意味や価値があり、言葉は道具にすぎないのです。

 

あなたが傷ついた言葉。

それもあなたが気付いていなかった心の隅にある現実を見せているのかもしれません。

 

言葉に写った自分自身の状況をもっと意識に上げること。

それが言葉の呪縛から逃げられる一番簡単な方法だと私は考えています。

 

この記事が少しでもあなたのお役に立てれば幸いです。

感想、質問大歓迎。

それではまた。

 

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シャボン玉の写真