芸能人はなぜ短命なのか?そこに隠された意外な理由
こんにちは。
東洋哲学において、時間は“未来から過去に流れてゆく”という考え方があります。
そこには、「あの人と結婚していれば、こんな貧乏にならなかった」とか「あんなに苦労をしたから、いまの自分がある」という命題は存在しません。
過去に“あれ”をしてもしなくても、未来は同じようにやってくるという考え方は、苦労や努力を美談的に捉える傾向のある現代人にはなかなか受け入れられないかもしれません。
もっと若いときに勉強をしていれば、いま頃優雅な暮らしをしていたかもしれない・・
もっと出逢いに積極的だったら、いい人と結婚していたかもしれない・・
はたして、そうでしょうか?
常に理想は“現状の外側”に存在しています。
それゆえ、過去にあなたが現状の外側にゴールを設定していないかぎり、理想の生活を“いま”手にすることは不可能とも言えます。
若くして有名になる人。
ある程度の年齢になってから一躍有名になる人。
どんな人生においても、有名になるという確率はきわめて低いと思います。
有名になったり、華やかな世界にで生きる存在になるということ自体、張本人にとってもそれは想定外、つまり“現状の外側”の人生と言えるのではないでしょうか。
だからこそ、有名になった人ほど現状の外側のまま人生を終えてしまうのではないかと私は考えています。
それって運命、もしくは宿命なの?と思われるかもしれません。
多分、それは運命であり、宿命なのでしょう。
しかし、運命や宿命は「分け与える」ことも可能です。
マザー・テレサやオードリー・ヘプバーン、黒柳徹子さんのように有名でありながら慈善活動に身を捧げる生き方は、まさに運命や宿命を分け与えていると言えるのではないでしょうか?
生きる力は未来からやってきます。
人生におけるすべての原因も、過去ではなく未来側にあると言うべきなのかもしれません。
だからこそ、思いっきり未来に向けて矢を放ってください。
幸運や幸せといった的は、過去には存在しません。
それは絶対と言い切れます。
この記事が少しでも役に立てれば幸いです。
それではまた。
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ツラいときこそあなた自身が愛になれ!
(映画『ハクソー・リッジ』の舞台にもなった沖縄県浦添市の前田高地にて)
こんにちは。
誰もが知っているモーツァルトやベートーベンのような天才作曲家は、音を色彩などの別な感覚によって捉えていたと言われています。
頭の中で一度視覚化しないかぎり、異なる周波帯の音を複雑に組み合わせることはものすごく難しいらしいのです。
これは「共感覚」と呼ばれているもので、実は我々のような一般の人にも備わっている脳の特性でもあります。
例えば、落ち込んでいるときに「心がブルー」とか、身体に激痛を感じたときに「電気が走った」などと言いますよね?
人間が他の動物と決定的に異なるところ、それはイメージの世界を情報空間の中に無限に広げられる能力を持っていることです。
「氣」の世界では、情報空間と、いまあなたが肌で感じている物理空間は連続性(つながり)があると考えます。
恋人にフラれたり、借金を背負ったりして脳内のセロトニン(ハッピーホルモンのひとつ)の量が減ってしまえば、クスリで分泌量を増やすことができます。
しかし、元恋人とヨリを戻したり、宝くじで高額当選をしたりすれば、クスリなしでもセロトニンの量は増えることでしょう。
要は、人との「関係性」や持っている「資産」というものも“情報”の一種であり、目に見えるようで目に見えない、手に取れるようで触れることのできないものによって、人の心は動かされているという紛れもない事実があるのです。
あなたが嬉しそうにしていれば、私も嬉しくなります。
あなたが哀しそうにしていれば、私も哀しくなってしまいます。
異なる“自我”を持っているもの同士でも共感してしまうのは、我々が宇宙と名付けられた広大な空間を共有するために生まれてきたからだと私は考えます。
誰かの幸せのために生きようと思えば、それは自分の幸せのために生きることにもなります。
誰かの幸せを願えば、それは自分の幸せを実現させる近道ともなるでしょう。
なぜなら、「幸せ」もまた「氣」という情報であり、情報は国際通話のように距離や時間に関係なく伝わるからなのです。
動物や花が好きでも、愛し合い憎しみ合う相手はなぜか人間です。
すべての解決を時間に任せるくらいなら、私は愛のある世界だけで生きていこうと考えます。
あなたはどうですか?
沖縄の戦地巡礼から帰ってきたいま、そんなことをひとり考えながらこのブログを書きました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ではまた。
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釣り合いの法則~言葉は現実を写す鏡である
他人との関係性の中でしか、言葉は意味を持たないと私は常々感じています。
「おーい」と大きな声を発したとしても、発話状況によりその一言が色々な意味を持つようになるものです。
誰かを呼んでいるのか?
ミスを犯した相手を責めているのか?
感嘆の意味を込めた相手へのリスペクトなのか?
だから、英語を習得するときも“正しい”文脈や文法なんてものは初めから存在していないと考えるほうが意外と楽に会話力が身に付いたりするものです。
ましてや、言葉自体にも“決まった(特定の)”意味はないと学校で教えるべきなのかもしれません。
“言霊”と言われるように、日本では昔から言葉の力を信仰する風潮があります。
しかし、それは言葉が持つ「エネルギー」のことであって、言葉の「意味の強さ」を示すものではありません。
毒を吐く人は、その吐いた言葉自体に悪意があるのではなく、その人の心が初めから悪意という毒に冒されていると表現したほうが適切だと思います。
言葉には決まった意味を持たないと言いつつも、私は細心の注意を払って言葉を選びながら会話し、文章を書く習慣を身に付けています。
よく、思考は現実化すると言われますが、吐いた言葉はすでに現実化しているのです。
私はこれを「釣り合いの法則」と呼んでいます。
いつも“◯◯がしたい”という願望癖がある人は、常に「何もしていない」という現実を身にまとっています。
いつもお金がないと言ってる人は、お金を稼ぐ方法よりも、お金がない自分が似合う環境や相手を選ぶ傾向があります。
言葉は現実の写像です。
現実に意味や価値があり、言葉は道具にすぎないのです。
あなたが傷ついた言葉。
それもあなたが気付いていなかった心の隅にある現実を見せているのかもしれません。
言葉に写った自分自身の状況をもっと意識に上げること。
それが言葉の呪縛から逃げられる一番簡単な方法だと私は考えています。
この記事が少しでもあなたのお役に立てれば幸いです。
感想、質問大歓迎。
それではまた。
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あなたが吐く言葉は、一つ残らず現実化している
多重人格者の人は、一度にすべての人格を出せないと言われています。
A、B、Cという三つの人格を持っていれば、Aの人格でいるときは、BとCの人格は存在していないということになります。
糖尿病を患っている多重人格者の人は別人格になったときに、一時的ですが血糖値が正常になったりするということがあるそうです。
また、日英のバイリンガルの人は英語を話しているときには英語人格になり、日本語を話しているときは日本語の人格で物事を考える傾向があるようです。(もちろん、人によって違うこともあるでしょう)
人格とは、この世界で機能しているあなた自身の唯一の“自我”のこと。
あなたの自我は、あなたが生きていると“思っている”世界によって作り上げられ、逆にあなたの自我がそのまま、あなたが生きていると思っている世界を作り上げているとも言えます。
なぜ、現実世界ではなく、「生きていると思っている世界」なのか?
それは、人それぞれ同じ環境で暮らしていたとしても、見ているものや重要だと思っていることが違うからです。
あなたが自分自身で“いま生きている”と認識できる世界の定義、それは、すべてが“言語化”できる世界のこと。
たとえ未知なものを差し出されたとしても、なんとなく“こういうものだろう”と言語化して推測はできるはずです。
これはできる、これはできない、これは知らない、好き、嫌い、痛い、かゆい、バカ、うれしい、かっこいい、欲しい、哀しい、悔しい、ブス、デブ、かわいい、つまらない・・・
つまり、あなたが使っている言葉があなた自身が生きる世界のキャパ(容量)を決めているとも言えるのではないでしょうか。
私は、やりたいことがあるときほど過去を振り向いてはいけないと、必ずアドバイスします。
心身の不調を抱えている人も同様です。
過去の人間関係さえも綺麗さっぱり一つ残らず清算してしまったほうが、不安になるどころか、むしろ心身共に快調になるはずです。
“〜したい”という言葉は、“過去という臨場感”と固く結びついています。
過去の何もしてこなかった自分を否定しながら、実は意識下では自己弁護して肯定したいのです。
だから、“〜したい”という言葉が口癖(もしくはセルフトーク)になっている人ほど、石のように腰が重く何も新しいことをしない傾向があるのも事実です。
「いい人に出逢いたい」と思うのは、人を育てようという意識が希薄な証拠。
「あいつはバカだな」と思えば、あなたはバカだらけの世界で何もできずに埋もっている人間であるという証拠。
「ダマされたくない」と思うのは、他人を信じようとする“自分”を信じていない証拠。
「消えてしまいたい」と思うのは、自分の存在感を過大評価している証拠。
「お前にはできない」と言われたら、その人が将来成功したあなたと向き合いたくない証拠。
すべての人の人生は、言葉や文字という二次元の世界で表現できてしまうもの。
だからこそ、言葉を上手に選択し、“支配する”必要があるのです。
人は言葉をコントロールできたとき、初めて言葉を超えたものの存在を知ることができると私は思っています。
私はまだその境地に至ってはいませんが、あなたはどうですか?
この記事が少しでも参考になれば幸いです。
それではまた。
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年を取る怖さの克服方法は、自分を“いま感”で満たすこと
目の前で、どんなに人生論や夢を語ろうと、旅の経験が少ない人の話はなんか薄すぎると感じるのは私だけでしょうか?
旅をすることのメリット、それは「感性の引き出し」が増えることだと私は思っています。
二十歳の旅の経験は、二十歳の頃の感性でしか話すことができず、それはどの年齢になっても同じ。
だから、仕事をリタイアした後のクルーズ旅行をジジババが語っても、若い世代になんも響かないのは当然のこと。
年老いたボブ・ディランがしわがれた声で『Like a rolling stone』を歌うのと訳が違うんですよね。
人生を過去の積み重ね、もしくは過去の積み重ねが人生と考えるか。
それとも、人生は未知なことの連続であると考えるのか?
過去の反対語、それは未来ではなく、“未知”ではないかと思います。
なぜなら、過去に生きた人にとって、つい昨日のことも未来だからです。
つまり、時間という概念はさほど重要ではなく、要はあなたがまだ見ていないことに触れてみる。
それこそが時間の流れという“宇宙の法則”に逆らわない自然な生き方なのかもしれません。
“まじめな人は、真面目ジメジメ”
これは私が好きな斎藤一人さんの言葉です。
“喰うために生きるのか?それとも生きるために喰うのか?”っていう表現がありますよね。
一般的には“生きるために喰う”のが美徳とされていますが、人は喰っても動く保証なんてないので、“喰うために生きる”ほうが未来に向けて“現在活動中”という意味で正しいはずなんです。
夢や希望を語るほど、人は足が重くなっていきます。
それは、TRYしてこなかった過去の臨場感を高めてしまうからです。
人は臨場感の高い世界にしか生きられないというのが、現時点での認知科学の答えのようです。
歳を取ることを怖がる理由もそれと同じ。
“いま感”の薄さで窒息しそうなだけなのかもしれません。
行動できるのは、いま、いま、いま。
さあ、現状を飛び出しましょう。
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