正論を語れば孤立する。愛で語れば自立する。
久しぶりの投稿。
このページを開いてくれたあなたに心から感謝致します。
最近、かなりの頻度で行っている沖縄。
私は“邪気祓い”と呼んでいるのですが、物理的に遠いところへ行くという行動だけでも、いかに自分が狭い世界の中で生きているのかを痛感させられます。
今回も、最高の気付きを私に与えてくれた沖縄。
その中でもいちばんの気付きは、「人は正しいものを見つけたと思った途端、他人との関係性を失う」ということ。
新聞で見つけたある女性の手記に、こんなようなことが書いてあったのを覚えています。
“本当の自立とは、他人に支えられて生きていくこと”
自立の意味を取り違えると、人は孤立していくのだろうと私は思います。
自立にはあって、孤立にないもの。
それは、“他人を素直に認める”ということではないでしょうか?
沖縄滞在の最終日、スタバで隣の席に座っていた初老男性二人の会話。
面白すぎて、一時間近くそこから動けませんでした。
初老男性Aさん:ある教典の一節をひたすら紹介(離婚経験があるらしい)
初老男性Bさん:Aの友人。それをじっと聞いている
私は、教義の内容こそ知りませんが、教典の内容は素晴らしいと素直に思いました。
しかし、もっと素晴らしいと感じたのは、ご友人の説法をじっと聞いていた初老男性Bさんの次のような言葉です。
「それをお前の人生に置き換えて喋ってみなよ」
Aさんはしばらく何も言葉を発せない状態でした。
しかも、Aさんは離婚の原因を元妻に非があると思っているらしく、そのことについてもトドメの一発をBさんから食らってしまいました。
「悪いものを受け入れることのほうがもっと大事だよ」
Aさんは完全に撃沈です。
人は正しいものを見つけたと感じた瞬間、それに光を見いだし、その光を頼りに前へ前へと突き進んでいきます。
見つけた光が正しいと思えば、その正しさが偉大であればあるほど、それを他人にも教えたくなるもの。
しかし、人間社会の争いごとの大部分がそこに端を発しているのも事実です。
競争、競合、奪い合い、なじり合い、誹謗中傷、傷付け合い、差別、生活ランク・・・
日本人は平等(と思われている)社会で生きているが故に、他人を認め、褒め、賞賛することより、自分と他人を区別したがる傾向があると言われています。
しかし、それぞれの人が持っている他人との違い。
それらを堂々と語れる社会でないと、自分を認めてもらえる機会もないということに我々はもっと早く気付くべきではないでしょうか?
何度失敗してもいいんです。
何度負けてもいいんです。
何度叩かれてもいいんです。
誰もが経験してるんです。
だから、隠さなくても全然大丈夫。
落ち込んで、悲しんで、打ちひしがれても、他人を包み込む優しささえ忘れなければ人は必ず救われます。
人を優しく包み込む。
それができるあなたこそが「神様」なんです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
PS
そんなことに気付かせてくれた沖縄、最高かよ!
※メッセージも待ってま〜す!
yoshihikomatsue◯gmail.com
◯を@に置き換えてください